実践報告&現場の声

(中級)「できる日本語 中級」9課 詩作の実践

井出 聖喜(沼津日本語学院)

はじめに

「できる日本語 中級」の本冊の第9課は「言葉を楽しむ」というタイトルの単元です。
単元の行動目標は「日本語の豊かな表現を知って、自分の国のよく似た表現と比べたり、紹介したりしながら、周りの人と楽しくコミュニケーションを取ることができる」というものです。
導入部での「話してみよう」では「早口言葉」や「回文」、「なぞなぞ」といった日本の伝統的な「言葉遊び」の世界を文字通り大いに遊びまわり、楽しみました。ふだん日本語の発音に苦労している学生たちも、教師の私がろれつが回らなくて「失敗! もう一度!」とやってしまうわけですから、ゲラゲラ笑いながら「言い間違える」楽しさを味わったものです。

「できる」で何を取り上げるか!
さて、この「言葉を楽しむ」の単元の総仕上げとして「できる!」があります。
「日本語を使って表現しましょう。」とあり、学生たち自身が日本語による表現活動に挑戦することになります。ただ、ここでは通常の散文形式で体験を述べたり報告文を書いたりするのではなく、「日本語の豊かな表現」にコミットしたものである必要があります。
そこで、例として挙げられている中の「日本語で詩やストーリーを作って発表しましょう。」に沿った形での活動を考えました。担任の先生や他のクラス担当の先生方と話し合い、「俳句作り」、「何枚かの写真を用意し、そこから連想され、触発されたイメージを詩の形にまとめる」などいくつかの案が出されました。

谷川俊太郎の『生きる』を用いて…
そうした中、「ことば・表現 ワークブック」の74ページ「作品の感想を読んでみよう。」として掲げられている4編の感想の中に谷川俊太郎の「いるか」について述べたものがあり、その詩の全編を学生に提示し、みんなで読んだところ、大好評だったことを思い出しました。他の「ことばあそびうた」も何編か紹介するつもりだったのですが、谷川俊太郎のもっと別の面を学生に紹介したいと思って、『朝のリレー』や『二十億光年の孤独』など、いくつかの詩を渉猟しているうちに『生きる』が目に留まりました。そして、その瞬間「あ、これは学生の詩作の〝ひな形〟になるなあ。」と思いました。

どんな文学ジャンルもそうですが、一つの作品を作るには器と中身が必要です。換言すれば、形式=フォルムと作者の内面に生起した表現されることを欲している思いです。後者こそが大切だし、作品の命だと言われますが、それが言語化され表現されるためにはどうしても前者が必要になります。
『生きる』で言えば、「生きているということ/いま生きているということ」という各連冒頭の2行と、その後に続く「~(という)こと」の反復と増殖です。もちろん、この形式を借りて詩を作るということになれば、それは純然たる創作ではなく、今日よく言われる用語に従うなら「二次創作」ということになるのだろうと思います。
しかし、この語り口は留学生にも比較的容易に理解できるものだろうし、それほど多くの授業時間をこの活動のみに費やすことが許されない中にあってはこの方法は有効だろうと判断しました。つまり、この語り口を用いることで、学生たちは彼らの日常や周辺の現実、内部に潜んでいて吐き出すことを封じられていた或る思いといったようなものを見つめ、これと相対(あいたい)し、表現へのとっかかりを掴むことができるのではないかということです。
もちろん、こうした発想とその実践は日本語学校においてももちろんですが、小中高の学校教育現場においても多く為されているだろうことは容易に想像がつくことですが、だからこそやってみる意味も多少の成算もあるのではないかと思いました。
 そこで、改めて他の先生方に提案するために学生に提示するワークシートを作成しました。

谷川俊太郎の『生きる』から学生たちひとりひとりの『生きる』へ

先生方にこうした授業展開を提示したところ、賛同していただきましたが、クラスの学生たち9名全員による共同作品にしてはどうかという意見もありました。それはそれで魅力的でしたが、学生たちひとりひとりが自分自身の「生きる」を見つめることこそが大切ではないかと考え、個々に取り組ませることとしました。

読む、読む、読む…、そして書く
 「この間、谷川俊太郎という人の『いるか』という詩を読みましたね。」――私が言うと、口々に「いるかいないか……」などと語り始めます。
 「ほかにもこんなおもしろい詩があります。」と言って、『ばか』と『ことこ』を記したプリントを配付し、「このこのこのこ……」と、しばし学生たちと共に声に出して読むことの楽しさを味わいました。
 「ところで、この詩人はこのような楽しい詩だけでなく、私たちの心の深いところに届くような詩も書いているんですよ。」――ここで『生きる』の詩を書いたプリントを分けます。指示をする暇もあらばこそ、学生たちは手元に配られたそばからもう声に出して読み始めます。「よしよし」と思い、「では、みんなで声をそろえて読んでみましょう。」と呼びかけ、スタートすると――読めません。あちこちで滞りました。
「先生、木もれ陽って何ですか」、「メロディって?」――質問が次々に出てきます。
気を取り直して、また読みます。本当は10回でも20回でも読ませたかったのですが、時間がありません。
「この詩で作者が訴えたいことは?」といった、学校教育の現場でやられていそうな批評的、かつ鑑賞趣味過多の授業展開はしませんでした。
「さあ、今から自分の『生きる』を書いてみましょう。自分が本当に感じたこと、思ったこと、体験したことを書きましょう。うそは書かないようにね。」そう投げかけると、しばし静寂の時が訪れました。どこか一点を見つめる者、シャープペンシルを握りしめてぎこちなく文字を書き付ける者、様々な姿や表情を見せていますが、皆一つの方向をめざしているようでした。
しばらくして、残念ながら授業終了のチャイムが鳴りました。そこで、次の私の授業担当日までの宿題ということになりました。

学生の作品から
 さて、学生の書いてきた作品すべては紹介しきれないので、そのうち2編を紹介したいと思います。手直ししたいところは何箇所かありますが、あえて学生が書いてきたものをそのまま掲げます。(ただし、後者の作品に1箇所修正したところがあります。それはおそらく本人の表記ミスだと判断されるところです。)

  生きる
    グエン・ティ・リン(ベトナム)
生きているということ
いま生きているということ
毎日起きているということ
今心臓がこどうしていること
鳥がなっている声をきけること
いい本をよむこと
毎日がんばっていること

生きているということ
いま生きているということ
母にしかられること
父が詩をよむこえをきくこと
あめの中 行くこと
よる一人でなくこと
とてもつかれていること

生きているということ
いま生きているということ
ちいさいはなをみること
子どものえがおをみること
あおいそらをみること
つかれても
まいにちがんばっていること

生きる
   シャ ユ(中国)
生きているということ
いま生きているということ
毎朝牛乳を飲むということ
ときどき歯がシクシク痛むこと
健康のため積極的に運動すること
平凡な生活が過ぎること

生きているということ
いま生きているということ
夢が実現するように努力すること
ずっと好きな人の傍にいること
家族が幸せになること
自分が喜び 心が自由ということ

生きているということ
いま生きているということ
春には花の香りがあちこちで見られること
夏の日差しは暖かいと感じること
秋の風は寂しくなること
冬の雪は世界を童話のようにすること
季節も人生も変化しつづけるということ

この2編は特別選りすぐられたもの、ということではありません。他の作品もそれぞれ自分の言葉で自分の思いを語っています。
それらの中で、作品自体を紹介することは慎重に避けたいと思いますが、ミャンマー出身の男子学生の詩が読む者の心を打ちます。彼は、日本における何の変哲もない現在の日常と母国の家族・友人・民衆たちの間にいま、その瞬間に起きていること、その二つの現実の乖離へのいらだちを激しい言葉で綴りつつ、最後の1行に「いま困っている国民をできるだけささえるということ」という決意を、あたかも自らに言い聞かせるかのように書き記しています。

終わりに
この取り組みを通して改めて思ったことがあります。
プロの詩人や作家の作る作品は言葉による表現の洗練の極みに立ち現れます。日本語学習者には表現の洗練など望むべくもありません。彼らの舌っ足らずな語りは、あたかも赤ん坊の泣き声や幼児の片言(かたこと)の言葉になぞらえられるほどのものかもしれません。
しかし、私たちが赤ん坊の泣き声や幼児の片言の呼びかけに心を動かされることがあるように、日本語学習者のぎこちない言葉の連なりの中から私たちの心をとらえる或る美しい旋律やハーモニーが響いてくることがあるものです。
私たちは日本語学習者の日本語能力の向上のために様々な指導の手を尽くします。彼ら自身も、もっと日本語がうまくなりたいと欲しています。文法を学び、語彙を増やし、会話練習に作文に、と努力を続けています。ともすると、私たちは、彼らを「教え導かれる者」という視点で捉え、「未熟な者」とみなしてしまうことがありはしないでしょうか。そんなとき、その「未熟な」言語表現の奥に、一人の人間の、彼がまさに彼である所以の、彼女を正しく彼女たらしめているところの、「生きる」姿を見出すことができるならば、私も「教え導く者」という傲慢さを拭い去り、一人の人間として彼らに相対することができるように思うのです。

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